お江戸歩き散歩

 殺伐とした現代から離れ、浮世の憂さを晴らすロマン溢れる江戸の風景へと足を運びたくて旅をしています。この思いがみんなに伝われば、いまの日本ももっと良くなるのではと信じつつ旅をしています。
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竪川沿いに弥勒寺へ


 竪川橋になります。この辺りは、鬼平に出て来る軍鶏なべ屋「五鉄」という店があった場所だそうです。

 橋の下は、このようになっています。まさに人工河川ですね。

二之橋に着きました。

 ここには、このような説明版が立っています。
それによると、万治2年に開設され五つの橋が架けられ、隅田川に近いほうから一之橋として五之橋までとしたそうです。

 ここが弥勒寺です。この寺は、慶長15年に小石川の鷹匠町に創建されたそうですが元禄2年に当所へと移転したそうです。真言宗の関東四ヶ寺の一つとしても有名で、薬師如来本尊像は徳川光圀公からの寄進によるものとされます。





 ここには、杉山検校という方のお墓がありますが、これがそのお墓です。この方は幼くして失明し、江戸に出て鍼術を学び努力工夫を重ねた後、江ノ島の弁天の祠で断食祈願を続け、杉山管鍼を創案しました。その後も、この道で奥義を究め将軍・綱吉の病を治癒して禄500石を賜り300石を加増となり綱吉の命を受けて、鍼術の興隆を図りました。晩年を当地で過ごし、元禄7年に85歳で没し当寺に葬られました。
 
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本所・深川「鬼平」の舞台を歩く


降り立った駅は、地下鉄新宿線菊川駅です。駅前には「長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡」の解説版があります。

 

さて、そろそろ街へと進みましょう。

 菊川3丁目のこの地は、長谷川家の住宅跡です。長谷川平蔵が屋敷替えで移った場所です。
孫の四代目平蔵のときに、遠山金四郎の下屋敷としても使われたのです。両方の人物も実在の人物で、
平蔵は火付け盗賊改役として、江戸市中の盗賊取締り等で活躍し、「鬼平犯科帳」・池波正太郎箸の主人公です。


ここは榎稲荷神社、天保3年に菊川の堤に建立され、当初は土手稲荷と称していたそうです。
その後、大久保紀伊守の邸内社となり境内には榎の木が林立していたことから榎稲荷大明神と
称するようになったとされます。関東大震災以後、当地へ移転したものです。

さらに歩みを進め、竪川へと行きました。



竪川は、墨田区と江東区を流れる人工の河川です。
江戸城に向かって縦(東西)へ流れることから、こうした名称が付けられたとのことです。
三之橋は三ツ目通りにあり、そこから700メートル先の西の清澄通りには二之橋があります。
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世田谷沿線を歩く


 東急田園都市線の三軒茶屋駅で下車しました。
ここにはその名の通り、昔、三軒の茶屋があったそうです。

 これが、その由来を説明した解説版です。

また、江戸時代には丹沢の大山阿夫利神社へお参りに行く人が増え、
大山道として賑わうようになりました。やがて今の玉川通りが造られ、
その分岐点に三軒の茶屋「しがらき(後の石橋屋)」「角屋」「田中屋」
が出来て、大山詣や多摩川行楽の人々の休憩所としていつしか三軒茶屋と
呼ばれるようになったとされます。



今日、最初に訪問するのは教学院最勝寺というお寺で、駅から2分という近い場所にあります。
江戸五色不動の一つである目青不動があることで知られ、
慶長9年に法印玄応和尚という人が開基したといわれています。
最初は江戸城の紅葉山に創建されたそうですが、麹町貝塚、赤坂三分坂、
青山南町と転々とした後、明治41年に現在地へと移築されました。

 江戸時代には小田原城主・大久保加賀守忠朝の菩提寺であったため
境内には大久保家歴代の墓があります。



 やや雑然とした感じですが、ここは本堂です。

目青不動はこの不動堂に祀られています。

 ところで、江戸五色不動とは目青不動・目黄不動・目赤不動・
目白不動・目黒不動のことをいいます。
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命を張る江戸っ子の男伊達

火事と喧嘩は江戸の華・・・昔から云われた江戸っ子気質ですね。
今日、訪れたのは四谷にある消防博物館です。


玄関はこのようになっています。

中に入ると、このように江戸の火消しの歴史から分かるように展示されています。

昔の消防ポンプはこういうものだったのですね。

火消しの纏いです。こんなに沢山あったのですね。
今の消防団のはしりでしょうか。

消防服のようですが、陣頭指揮に立つ偉い方のものでしょう。

 これは、当時の火事の火消しの様子を描いたもののようです。

 江戸の三大大火についての説明です。ここで幕府の防火対策に
ついてふれておきます。明暦の大火(
1657)は江戸の町の6
割を焼き尽くしました。
幕府はこの後に火災対策として江戸城内から大名屋敷や寺社を移転させ、
火除け地・広小路・防火地帯を設置、市街地の拡大などに着手しました。
従来の六万石以上の大名十六家を一番から四番に分けて編成した「大名火消」に加えて、旗本の「定火消」が組織されましたが、武家優先の上、放水設備はなく破壊消防が中心でした。吉宗の時代になって、大岡越前守はさらに防災体制を強化するため「町火消」をつくり、水による消火方法を取り入れました。指揮系統が不統一で、効率は悪かったのですが市民の防火意識は現代よりも高かったようです。


これは、江戸時代よりずっと近代化されてからの消防ポンプのようです。

昔は、オートバイで駆けつける消防隊もいたんですね。
 
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明治の文人の町、番町へ


 今日のお散歩コースは、四谷番町の文人が住んだ旧跡を辿ることにしました。
降り立った駅はJR四谷駅です。

 番町文人通りの案内があります。

最初に、向かった場所はここ島崎藤村居宅跡です。藤村は昭和12年から6年間ここに住みました。
作品の「巡礼」や「ふるさと」が生まれたのがここなのです。

次に訪れたのが、ここ泉鏡花居宅跡です。明治43年から亡くなる昭和14年まで住みました。
「高野聖」「天守物語」「婦系図」など、数多くの名作が生まれました。

この文人通りには、このように数多くの有名作家が住んでいました。
この白樺派作家の有島武郎兄弟の居宅も近くです。
彼らの父が明治29年にここを購入し、自邸として住んだそうです。

 六番町から四番町へと向かうと、四番町歴史民俗資料館があります。

 ここは行人坂、南法眼坂からさらに北に下る坂です。
この行人坂と南法眼坂に加え東郷坂は、南北に続く上り下りの坂道で、古くはこの坂道全体を
法眼坂とも呼んでいたそうです。

これが東郷坂です。東郷元帥記念公園の西側にあり、行人坂を下り切った所から始まります。

 この記念公園は、東郷平八郎元帥邸跡が区に寄贈され公園として区民に提供されたものです。
靖国通りから南へ入ったところにあります。昭和13年に開園し、園内には東郷邸にあったライオン像や力石などが残されていて、子どもたちのための遊具なども設置されています。
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太鼓橋から行人坂へ


 桜の時期には、大勢の人出も見られる目黒川ですが、水はあまりきれいではありませんね。


 太鼓橋に来ました。明和6年に完成したのですが、当事としては珍しく石造りでした。
この太鼓橋を造った人物については諸説あり、あの江戸の大火事の放火犯八百屋お七の恋人だった僧侶の吉三という人物が修行中に民衆から寄付を受けて造ったという説と木喰上人が享和年間の末頃、八丁堀の商人たちの援助を受けて完成させたという説です。この先の大円寺には、吉三の伝説が書かれた標識と旧太鼓橋に使われた石材もあります。

 すぐそばに、シイの古木があります。なにやらいわくありそうな説明が立っていました。



さぁ、ここから行人坂が始まります。


この行人坂は、寛永年間に出羽三山の一つ湯殿山の大海法印という行者がこの地で修行を始め、それをきっかけに多くの行人が集まり住み着いたのが名前の由来だそうです。

 坂の途中に、このような庚申塚がありました。
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源義家が創建した寺とは


 これはお寺に向かう途中にあった宝仙学園中学校です。

 ここが山門です。門だけを持って来て置いたような印象ですね。

山門を入った先は、堂々とした拝殿があります。
この宝仙寺の縁起によると、平安後期の寛治年間に源義家によって創建されたとあります。この時の義家は、奥州後三年の役を平定して凱旋し、帰京の途中にありました。陣中で常に護持していた不動明王像を安置するための寺を建立することにしたのです。その地として、父の頼義がかって祭祀した八幡神社のある阿佐ヶ谷の地にすることとしたのです。
造寺俊成の折、地主稲荷の神が出現し一つの珠を与え、「この珠は希世之珍宝中之仙である。是を以って鎮となさば、則ち武運長久、宝燈永く明かならん」と言い終えると白狐となって消え去ったと云われています。これにより山号を明王山、寺号を宝仙寺としたと伝えられています。

 境内には三重塔もあります。この塔は以前は宝仙学園中学校の地にあったそうですが、焼失し再建されて現在の場所へと移築されたものです。

 これは石臼塚と呼ばれるものです。臼の形をした岩がたくさんありますね。

 ここに由来が書かれていますが、この神田川のある地では江戸時代から水車が多くあり、そば粉を挽くのに使われました。
当時、そばの一大消費地であった江戸東京へとそば粉を供給する拠点となっていたのです。

静かな本堂の雰囲気でした。

 帰り道の途中で見かけたのが、このレンガ造りの建物です。

 この説明版にもありますが、このモニュメントは明治初期創業の山政醤油という会社の醸造所の一部を移設したものだそうです。建物は、中野で初期洋風レンガ建物といわれている浅田銀行本店を手がけた中野在住の棟梁とその弟子たちによって築かれたものとされます。当時の中野周辺は、そば粉とともに味噌、醤油の醸造も盛んで代表的な地場産業だったと云われています。
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志村三大泉とは、涼しさを求めて訪ねる


 地下鉄の都営三田線志村坂上駅を降りて、しばらく行くと
国道17号沿いに「薬師の泉庭園」という静かな江戸庭園がある。
ここは「出井の泉公園」「見次公園」と並ぶ志村三大泉のひとつなのです。

 ご覧のように、庭園内には木々の緑が溢れています。

 江戸庭園と称されている通り、泉、池、滝、東屋、日除棚なども整備されています。

 池には、ご覧のようなザリガニが沢山いました。

 夏場には、何とも言えない涼しさを演出するギウボシがきれいでした。

 日本庭園らしい雰囲気ですね。日除棚も見えます。



 カリンの実と芙蓉の花が鮮やかに咲いていました。

 現在の公園は、平成元年に「医王山薬師院大善寺」の庭園を
史料に基づき復元したものだそうです。今から280年ほど前に、
徳川8代将軍吉宗が鷹狩りに出た帰りに大善寺という寺に立ち寄り、
此の地の風景の美しさと清水の美味しさに感激し「清水薬師」という
名を授け、本尊としたことに由来するそうです。
以来、江戸の人々の注目を集めて名所になったと「江戸名所図会」にも紹介されています。
庭園の美 | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark

巨木の多い自然の残る鎮守


 ここが入口です。正面が参道になっていますね。訪れたのは中目黒八幡神社です。

 拝殿を前に何やら見ているお参りの人です。

 ここが手水鉢になりますが、岩の間から泉が湧き出ています。近所の方は、この美味しい水をもらいにお参りするとのことです。

 境内は以外に広々としていました。

 ご覧の通り、さざれ石です。

 天を睨んだ狛犬の威厳のある姿です。

 創建年代は不詳とのことですが、古くから中目黒村の総鎮守として崇敬されていたそうです。
現在の建物は、昭和11年の落成とのことで堂々とした八棟づくりです。左側には神社の縁起が刻まれた八幡神社の碑があります。書道の大家といわれる豊道春海先生の作とされます。また、境内には、高さ30メートルを超える榎、イチョウ、ケヤキ、シイなど数多くの種類の古木が茂っています。
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ここが、かっての牧場跡とは


 今回お訪ねしたのは、日蓮宗・実相山正覚寺というお寺です。
中目黒駅の立体交差近くにあるお寺ですが、仙台伊達家とは縁が深く、
4代藩主の綱村の生母である三沢初子が開基創建したとされる寺です。

橋本牧場畜牛供養塔(目黒区指定文化財)

 この寺所蔵の文化財の一つがこれです。明治の中期〜昭和初期に
かけては、この目黒地区には数多くの牧場があり、地域の人々に新鮮な
牛乳を供給していたそうです。橋本牧場は、明治20年頃から大正12年まで
上目黒4丁目付近に3千坪ほどの敷地を有するもので、経営者の橋本寿吉が
牧場廃業時に敷地の片隅に建てた慰霊碑を現在の地に移転したものとされています。




 これが三沢初子の銅像になりますが、お墓は墓地にあり東京都指定
文化財になっています。

 境内の片隅に、こんな福福しい布袋尊像がありました。

 本堂の彫刻は、このように細密な立派なものです。

 これが本堂です。

 扁額は、何と縁起のよい開運殿となっていました。



 
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