お江戸歩き散歩

 殺伐とした現代から離れ、浮世の憂さを晴らすロマン溢れる江戸の風景へと足を運びたくて旅をしています。この思いがみんなに伝われば、いまの日本ももっと良くなるのではと信じつつ旅をしています。
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浅草初詣、番外編

 








 浅草へ出かけた時は、いつもここ「小柳」で昼食を食べます。
有名な老舗店は数多くありますが、我が家ではここが定番でうなぎを食べます。人気の店だけに、いつも行列が絶えません。とくに新年は1時間待ち位の長い行列となるようです。やっと、店内へ入れて食べかけた時でした。なんと獅子舞が店内にお祝いに来てくれました。獅子舞に続き、大黒様や恵比寿様も一緒です。




 そして、最後はいま話題のこれ、これ東京スカイツリーです。ご覧のように、吾妻橋の近くまで来るとくっきりと見えます。浅草名物がまた一つ増えました。昨年末頃から、観光客が一段と増えているそうです。
それを象徴するかのように、地下鉄の駅を上がると人力車がずらりと並んでいました。
めでたい正月となった新年の始まり、日本中の人たちにも福が訪れますように、取り分け東北の被災地の方々には今年こそ新たな幸せが訪れるようにと念じながら帰途につきました。
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新年、初詣は何と言って浅草だ

 
 今日は、穏やかなお正月日和、ここ浅草仲見世通りもご覧のように大勢の人人人です。


さぁ、浅草寺の境内を目指して行こうとするのですが、なかなか進みません。






 お参りのみなさん、今年も健康、幸運を願ってお線香の煙を浴びるのに集まっています。


 何とおめでたいお正月に、猿回しが見物出来ました。見事な演技に、見物客も立ち去る気配がありません。離れがたい気持ちを振り払って次の目的地へと出かけました。


 これまた、浅草の雰囲気を一段と盛り上げている人形に出会いました。
まさに、浅草最高!!
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遍照院長徳寺から志村一里塚へ

 










 

 真言宗豊山派のお寺、鎌倉時代初期に開山したとされていますが、幾度かの火災に見舞われ、昭和になってからも空襲により本堂も焼失したとされています。御本尊は不動明王で、かっては大日如来像であったとされます。平安時代末につくられた平泉は中尊寺に由来するとされる木造の古い像がありますが、これは区内でも一、二を争うもので板橋区の有形文化財に指定されているそうです。そのほかにも、見るべき石仏、力石など数多く残されているお寺です。




 国道17号線の両側にあるのが、この志村一里塚ですが、江戸日本橋から数えて3番目、3里の場所に位置する塚です。もとは旧中山道にあったものですが、新中山道がつくられた時に現在地に移築されたものです。一里塚とは、徳川家康の時代に主要街道の整備が行われ里程の目安としてつくられたものです。この志村一里塚の上には、榎が植えられていて5間四方、高さは1丈の基準に従った形で残されていて、国の史跡にも指定されています。
 
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常楽院を訪ねて清水坂へ

 











都営地下鉄三田線の志村坂上駅の南西に位置するこのお寺は、正保・慶安年間の開山とされていますが、明治時代までは熊野神社の別当寺だったそうです。
昭和13年頃になって、境内をはじめ付近一帯から弥生時代の前野町式土器というのが数多く発見され発掘されました。多数の土器が寺の収蔵庫に収められていますが、一部は明治大学博物館にも展示されているそうです。そうしたことから、このお寺は、通称を土器寺とも呼ばれています。
花見のシーズンには雅楽のコンサート、年末の除夜の際には誰でも鐘が撞くことが出来るなど地域への取り組みも活発なユニークなお寺として人気のあるお寺になっています。








 東京都教育委員会の説明によると、

「日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代とともにその呼び名を変えました。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています。坂の下には板橋・蕨両宿をつなぐ合の宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。この辺りは昭和三十年代頃までは旧街道の面影をのこしていましたが、地下鉄三田線の開通など、都会化の波によってその姿を変えました。」となっています。
昔は、この辺りからも富士の名峰が眺めることが出来たのですね。

 

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見次公園から熊野神社の志村城址を探る

 








 昭和28年開園の見次公園、板橋区立の公園ですが周囲約400メートルの円形の池になっていて周囲には遊歩道も造られています。一年中釣りができるとあって、釣り人も大勢来ていました。





 熊野神社を中心とした一帯には城があったみたいです。城の北側には荒川の沖積地を望み、西側、南側には荒川の支流出井川(現在は暗渠・緑道)が回り込み、東から西に延びる舌状台地上にあったようです。熊野神社境内西側に堀・土塁の跡があり、台地先端部が主郭であったことは間違いないと思われます。社殿は古墳上にあり、この古墳と主郭部の土塁は堀を挟む位置関係にあり、社殿の付近が堀への侵入を抑える櫓台の役割を有したと考えられます。遺構から見て戦国期と理解されるが、出土遺物には12世紀後半から15世紀後半にかけてのものが多いようです。これは豊島氏が栄えた時期と合致し、熊野神社の存在からも豊島氏系の武士(志村氏)が使用した城である可能性が高いと思われます。しかし文献資料上は当城の存在を示す史料は無く、「風土記稿」に篠田五郎、あるいは千葉氏(武蔵千葉氏)一族の居城とあり、戦国期の城であったことが述べられているだけです。










 

本丸は、志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川をめぐらせ、守るに易く攻めるに難しといわれる堅城であったが、大永4年(1524)に北条氏綱に攻められて落城しました。志村城は小高い台地の上にあり、赤塚城の支城として築かれたそうですが、現在、本丸跡は小学校やマンションなど宅地化されてしまい、二ノ丸跡は熊野神社になっています。社殿の西側の低地には、本丸と二の丸との間にあった空濠の跡がしっかりと残っています。

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志村坂上の延命寺を訪ねる

 
  通称をこぶ寺とも言われている延命寺は、都営地下鉄三田線の志村坂上
駅の西、徒歩で3分のところにあります。大永4年の創建と言いますから、
かなりの古刹になります。ちなみに、大永4年とは西暦で言えば、1524年になります。




 本尊は地蔵菩薩とされ、江戸時代には将軍の鷹狩りの際の御膳所でもあ
ったそうです。





 梵鐘堂はあるのですが、何故かこのようなところに梵鐘が置いてありました。
静かな雰囲気に満ちた境内と端正な本堂のお寺です。


 これは六地蔵ですね。ここには載せていませんが、そのほかに板橋区最
古の板碑、庚申塔や切支丹灯籠などもあります。板碑は「志村延命寺板碑群」
として、有形文化財にも指定されているそうです。


 祠に入っていてよくわかりませんが、これが「こぶ地蔵」です。
信仰心のある信者はこの「こぶ地蔵」へお祈りすることで、怪我は勿論、邪悪な
心を清めたものとされています。


 境内には、このようなひと際色鮮やかなノウゼンカズラが咲いていました。


 本堂の扁額になります。
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光福寺から、品川歴史館を見て来迎院へ

 







 京急本線立会川駅から西へ10分位歩くと、この光福寺へ辿り着きます。
創建は延暦元年とされ、相当古い歴史を誇る古刹です。周囲は住宅街となり、そこに囲まれた一角にあります。この寺の特徴は、何と言っても境内にそびえる大イチョウの木で、樹齢は800年にもなるそうで圧倒する高さは威厳を放っています。幹を見ても、ごらんのように根っ子だか幹だか分からない多くの乳根と呼ばれるものが垂れ下がっています。この木は品川区の天然記念物にも指定されています。ほかに、本堂の裏手には、中興の祖である了海上人産湯の井戸があります。かってはここから湧水を見る事が出来たそうですが、現在は見られません。この辺りの地名である大井とは、この泉が地名の由来とされています。






 訪れた日は、あいにく展示模様替えのため休館でした。










 もともとは鹿島神社の別当であったとされる天台宗のお寺です。
天保4年には上野の寛永寺の廃寺の住職が代々当寺の住職を兼務することになり鹿島山来迎院と改称したそうです。江戸時代には盛んだった念仏講の供養塔が3基あります。当時、大井村であったこの地でも念仏講は栄えていたとされます。また、ここにあるような珍しい形をした古木も人目を引きそうです。
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来福寺から西光寺へと歩く

 




 これは雪中庵蓼太の句碑です。


 ちょっと見にくい碑になっていますが、これが饅頭開祖の祖林浄因の碑になります。




 ここ来福寺は、真言宗智山派の寺で、正暦元年に智弁という方が創建されたとされてます。
多くの霊場めぐりの場として知られ、馬込長遠寺の末寺であり、御府内八十八ヶ所霊場の26番札所・玉川八十八ヶ所霊場の74番札所・東海三十三観音霊場2番札所ともなっています。また、ここには饅頭の開祖とされる祖林浄因というお方の碑や阿波の染物職人たちの墓を始め染物地蔵が設置されているほか、雪中庵蓼太の句碑もあります。




 境内にはこんな見事なサルスベリの木がありました。


 これが石造供養塔です。多くのお地蔵さんが供養として祀られています。




 このお寺にはもう一つ、名木として稚児サクラがあります。花が咲いた姿を見たいものです。


 浄土真宗のこのお寺は、栄松山と号し、もとは麻布の善福寺の末寺です。弘安9年に栄順律師という方が開創した当初は天台宗の寺だったそうですが、後に浄土真宗に変わったそうです。
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鮫洲八幡神社を訪ねる

 
 この旧東海道沿いにある鮫洲の商店街を抜けて、ひたすら神社へと向かいました。それにしても、かっての賑わいが嘘のような静けさが漂う商店街ですね。時間のせいなのか、気になりました。

 途中で見かけた小さな祠です。きれに整理され、お供えもしてあるようでした。


 周りは住宅街で狭い道を入った場所にありました。これは別社になるのでしょうか、鳥居がやたらと至る方向を向いて造られています。


 ここは神社の境内です。近所のおじさんがミカンを枝に下げてメジロを呼び寄せていました。
ちょうどタイミングよく近くへ来たところをとらえました。随分と警戒しているようです。


 これは鮫洲埋立記念碑です。
鮫洲は、古くは御林町と呼ばれていました。海に面した漁師町で御菜肴八ヶ浦の一つに数えられていたのです。御菜肴浦とは、新鮮な魚介類を将軍家に献上する持たされていた漁場を言います。江戸湾には漁場の浦が44ヶ所あり、漁業上の元締めとなっていたのです。八ヶ浦は、本芝・芝金浦・品川浦・御林・羽田・生麦・神奈川・新宿の各漁師町を言ったそうです。


 本殿はなかなか立派なものですね。
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海晏寺から泊舶寺を経て、山内容堂の墓所へ

 




 ここ品川宿では、大変有名なお寺であり、数多くの有名人が眠っているお寺でもあります。
しかし、その大部分は一般には公開されていません。鎌倉時代の5代執権、北条時頼が開基とされ宋から渡来した蘭渓道隆僧侶により開山した曹洞宗の古刹です。本尊の観音像は、品川沖で網にかかった鮫の腹から出たものと伝えられていて、この一帯を鮫洲とした地名の由来にもなっています。江戸時代には、御殿山の桜と並び江戸随一の紅葉の名所として知られていました。さて、ここの墓地には、岩倉具視・松平春嶽などの墓のほか児島惟謙・中根雪江・由利公正といった人たちの墓もあります。




 ここは泊船寺というお寺ですが、通称俳句寺とも言われ、文化年間には山奴という俳人が住んでいて、その弟子の景山とともに地域の人たちに俳諧の道を広めたとされています。
山奴は後に出家して白牛禅師となって俳諧寺として有名になり、松尾芭蕉とも親交があったことから、境内には牛耕庵を建てたと伝えられ泊船堂・芭蕉堂としてますます隆盛を極めたそうです。






 この墓所は大井公園という場所にあり、立会小学校の校庭に沿った場所になります。
幕末期の土佐藩15代藩主の山内豊信は、その号を容堂といい維新後は内国事務総裁などを歴任したのですが、日頃からの無類の酒好きがたたり45歳の若さで亡くなりました。
自らを鯨海酔侯と称し、墓は遺言により下総山(土佐山)に埋葬されたものの、現在地へと改葬されたものです。

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