お江戸歩き散歩

 殺伐とした現代から離れ、浮世の憂さを晴らすロマン溢れる江戸の風景へと足を運びたくて旅をしています。この思いがみんなに伝われば、いまの日本ももっと良くなるのではと信じつつ旅をしています。
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文豪の面影を追って


 通りを渡って、次の目的地を目指すことにする。道路のところどころに、こんな案内表示があった。足元の低い場所だけに気をつけないと見過ごしてしまうかも知れない。 


 一見すると、何の変哲もない写真だがここが文豪芥川龍之介がかって住んでいた場所だ。
いまは万年塀で囲われただけで、向こうの家は関係ないので事前に調べないと分からない。家自体は、昭和20年の空襲で全焼してしまい残ったのがこの万年塀と右側に立つ樹木、「さざんかの木」だ。ここは借地だったが終戦後、芥川夫人が買い取る努力をしたものの実らなかったと言われる。
 龍之介は、この家で「羅生門」などの名作を世に出したそうだ。墓地は、巣鴨にある慈眼寺にあり、そこには谷崎潤一郎も眠っている。



 これは、与楽寺の解説をした表示板、ここ与楽寺は江戸時代には約10万坪にもなる境内を有する大寺院だったそうだが、いまでもその面影を十分に残すくらい長い塀が周囲を巡らしている。



 これが与楽寺の塀を取り巻きながら上ってゆく与楽寺坂だ。



 近くにあるのが、ここ天然自笑軒と楽天堂医院の跡である。芥川龍之介は、この当時有名であった料亭「天然自笑軒」で結婚式を挙げ、右手にある「楽天堂医院」を主治医としてこの地で暮らした。






  文治5年(1189年)源頼朝が奥州征伐の帰途この地に立ち寄り、鶴岡八幡宮を勧請して創建されたと伝えられる。以後、田端村の鎮守として信仰を集めてきた。 狭い参道の奥、やや高台になったところに本殿がある。現在の社殿は平成4年(1992年)の再建。境内には本殿のほか、稲荷社、富士浅間社、三峰社がある。  南に隣接している東覚寺はもとはこの神社の別当寺であったが、明治元年の神仏分離令により分離した。それまでは現在東覚寺にある赤紙仁王像はこの神社の参道入り口にあった。また参道の一の鳥居手前には、暗渠となる前の谷田川に架かっていた石橋が保存のために埋め込まれている。
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この記事に対するコメント

芥川竜之介の家が保存できなかったというのは残念ですね。このようなコンクリート板を落として作られた塀というのは阪神間ではあまり見かけません。東京には多いようですが。
medicus19 | 2009/12/08 9:08 AM
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