お江戸歩き散歩

 殺伐とした現代から離れ、浮世の憂さを晴らすロマン溢れる江戸の風景へと足を運びたくて旅をしています。この思いがみんなに伝われば、いまの日本ももっと良くなるのではと信じつつ旅をしています。
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海晏寺から泊舶寺を経て、山内容堂の墓所へ

 




 ここ品川宿では、大変有名なお寺であり、数多くの有名人が眠っているお寺でもあります。
しかし、その大部分は一般には公開されていません。鎌倉時代の5代執権、北条時頼が開基とされ宋から渡来した蘭渓道隆僧侶により開山した曹洞宗の古刹です。本尊の観音像は、品川沖で網にかかった鮫の腹から出たものと伝えられていて、この一帯を鮫洲とした地名の由来にもなっています。江戸時代には、御殿山の桜と並び江戸随一の紅葉の名所として知られていました。さて、ここの墓地には、岩倉具視・松平春嶽などの墓のほか児島惟謙・中根雪江・由利公正といった人たちの墓もあります。




 ここは泊船寺というお寺ですが、通称俳句寺とも言われ、文化年間には山奴という俳人が住んでいて、その弟子の景山とともに地域の人たちに俳諧の道を広めたとされています。
山奴は後に出家して白牛禅師となって俳諧寺として有名になり、松尾芭蕉とも親交があったことから、境内には牛耕庵を建てたと伝えられ泊船堂・芭蕉堂としてますます隆盛を極めたそうです。






 この墓所は大井公園という場所にあり、立会小学校の校庭に沿った場所になります。
幕末期の土佐藩15代藩主の山内豊信は、その号を容堂といい維新後は内国事務総裁などを歴任したのですが、日頃からの無類の酒好きがたたり45歳の若さで亡くなりました。
自らを鯨海酔侯と称し、墓は遺言により下総山(土佐山)に埋葬されたものの、現在地へと改葬されたものです。

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